こんにちは、清水エスパルスサポーターのえすぷれ(@ta1spulse)です。
あなたにとって、静岡ダービーとはどんなものでしょうか
静岡ダービーへの想いは、人それぞれです。
34分の1と考える人、エスパルスもジュビロも一緒に応援する人、相手チームに高圧的になる人、色々な人がいます。
色々な見方があって、良いと思います
この記事は、えすぷれにとっての静岡ダービーについて熱く語ります!
ぜひご覧ください。
静岡について
静岡は、東西にながく、東と西では文化がまったく違います。
静岡県観光エリアガイドでも紹介されていますが、静岡を分けると4つのエリアに分かれます。
富士と伊豆エリアも独特ですが、特にこの中部と西部は、静岡の2大勢力として競いあってきました。
県庁所在地は静岡市にあるものの、人口は浜松市の方が多いなど、色々な観点で競っていました。
※こちらのサイトは、静岡市と浜松市をわかりやすく比較しています。ご参考まで。
私は清水に生まれ、安倍川より西は異国といわれ育ちました(大袈裟)
上京後、帰省したときのお土産に「うなぎパイ」を買うことはありませんでした
あれは、西部のお土産ですからね
今では静岡のソウルフードと呼ばれる「さわやか」も、発祥は菊川で、しばらくの間、西部フードだった認識です
県庁所在地以外の要素は、西部が優勢でしたね
「子どものとも社」という子供の本やおもちゃを扱っている会社ですが、東西で分社されています。
色分けも意図を感じます
静岡ダービーについて
私にとって静岡ダービーは、静岡に生まれ育ち、そこで感じてきたものが含まれています
中部と西部の代理戦争的な感情ですね
昔は静岡県内出身の選手たちが、両チームに多く所属していました
静岡県出身というだけでなく、中部か、西部かという地区レベルで選手を見ていました
静岡ダービーの始まり
静岡ダービーの始まりは、1991年のJリーグオリジナル10参入争いからです
当時オリジナル10に選ばれた清水としては、当然という風に捉えていましたが、敗れたヤマハ(磐田)は悔しかったようですね。
当時を物語る記事にこのように書かれています。
新しいプロサッカーリーグへの熱気が一気に高まったのが1991年の初頭だった。前年6月に参加意思を表明した20団体へのヒアリングが始まったのはその年の8月。91年1月21日からの最終(第3次)ヒアリングに残ったのは14団体だった。
その結果を受けて1月30日に「プロリーグ検討委員会」が開催されて10団体を内定し、2月14日に正式発表された。
多くの人を驚かせたのは、そのなかに住友金属(現在の鹿島アントラーズ)と清水FC(現在の清水エスパルス)が入っていたことだった。JSL1部からの移行が大多数のなか、住友金属は2部、そして清水FCは実質的にまだチームがない状態だったからだ。
略
静岡県ではヤマハがJSL1部の強豪で、参加意思を表明していた。そこに清水でチームをつくりたいという強力な運動が起こった。当時から清水は日本一のサッカーどころで、高校サッカーで数々の優勝校を出し、JSLの選手だけでなく日本代表選手も多数輩出していた。プロサッカーチームを大きく育てる「ホームタウン」があるとしたら、清水以上の候補地はなかった。検討委員会ではヤマハと清水がひとつになって新しいクラブをつくったらどうかと働きかけたが、ともに「単独で参加」を希望した。
決め手になったのは、ここでもスタジアムだった。ヤマハは自前の小さなスタジアムを持っていたが、参加条件には合わなかった。清水には、91年の高校総体のためにつくられた日本平運動公園球技場があった。
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201206260009-spnavi?p=1
この時の想いがある人、ない人で、ダービーへの想いは違ってくるでしょう
Jリーグ参入は、磐田とたった1年差ですが、オリジナル10とそれ以外の差は大きいですね
オリジナル10=歴史深いと、周囲の方々から見られ、その歴史に共感し、入団してくれる選手もいると思います
清水の歴史の大切な1ページ目です
最後に
いかがだったでしょうか
静岡ダービーの対戦成績は、清水から見て20勝7分25敗になります
5つも負け越しています
この差をひっくり返すには、
同一リーグにいる前提で、シーズンダブル(年間2勝)を毎年繰り返したとしても、最短で3年かかるんです!
1勝1分なら、6年
1勝1敗なら、死ぬまで追いつけないです
リアル静岡を決める闘い、静岡ダービーは結果が全てです!
あなたにとって、静岡ダービーとはどんなものでしょうか。
ぜひお聞かせてください。
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